ラジオで始めた大相撲観戦史

第44代横綱栃錦の土俵入り(1954年9月 東京・蔵前国技館/毎日新聞より)
第44代横綱栃錦の土俵入り (1954年9月 東京・蔵前国技館/毎日新聞より)

娯楽の中心はラジオ

七尾にいた小学生時代はたまに見る映画のほか、ラジオが毎日の娯楽の中心だった。楽しみな番組はたくさんあったが「二十の扉」、「三つの歌」、「とんち教室」、「笛吹童子」、「三太物語」花菱アチャコ、浪花千栄子の「お父さんはお人好し」、三木トリローの「日曜娯楽版」などが記憶に残る。(最も、大人は「君の名は」だ)

ラジオはTVと違いビジュアルがないから、小説と同じように聞き手の想像力を掻き立てる。

大相撲実況放送

ラジオでは大相撲の実況放送にも夢中になった。当時は千代の山、東富士、羽黒山、照国といった横綱がいた。しかし、ラジオでは取り口はおろか力士の容貌も分からない。だから知識は「相撲」という雑誌から得た。

NHKラジオの実況放送は当時志村正順アナが担当していた。解説は神風正一さん、天竜三郎さん、大山親方を覚えている。しばらくして「三太と千代の山」という映画が七尾の映画館で上映され、その中で初めて千代の山と志村アナウンサーの姿を見た。

相撲のラジオ放送の人気力士の取り組みでは大歓声が起きて、制限時間いっぱいになったことを知る。志村アナが実況する、「行事軍配が返った。両力士、足の位置が決まった。下がりをさばいた。腰が降りた。立ち上がった!」と。しかしこの一連の動作はラジオでは具体的に分からなかった。
たまたま見た相撲のニュース映画で初めてこの一連の所作を理解した。軍配を返す髭の伊之助が印象的だった。

名人、栃錦

 

名人横綱 栃錦銅像(総武線小岩駅)1952年(昭和27年)夏、出羽・春日野一門の巡業が七尾に来た。七尾は相撲の盛んな土地でもあったし、七尾実業高校は全国有数の相撲の名門校だった。よく練習を見に行った。また七尾では毎年夏に全国大学選抜相撲選手権が行われた。

その会場になっていた愛宕山相撲場に大相撲がやってきた。前日に七尾に入った大相撲一行は市内のホテルや旅館に分宿。各ホテルや旅館には宿泊している力士の名前が貼りだされ、お目当ての力士のいる宿舎をのぞいたものだ。「相撲」のおかげで十両以上の力士はすべて知っていたが、私は栃錦が好きだった。

巡業は一日のみ。当日晴れるのを祈った。早朝から櫓太鼓が聞こえ、朝ごはんもそこそこに愛宕山に朝げいこを見に行った。栃錦のことは「相撲」で知っていたし、東京都江戸川区小岩の出身でお父さん孝行だと「相撲」に書かれていた。私が栃錦びいきなのはその記事の影響が大きかった。稽古場ではよく負けるが本場所では強いといわれていた。大内山を捨て身の首投げで破った相撲や吉葉山に二枚蹴りで勝った相撲などは胸のすく取り口だった。

実際見た栃錦はまだ関脇で千代の山と比べると小兵でやせていた。七尾巡業の結びの一番では千代の山に突き出しで負けた。しょうがないと思った。
この栃錦が9月の秋場所、14勝1敗で優勝した。花相撲は当てにならない!

大関になり、横綱へと進んでいく栃錦を応援した。関脇までは業師として出し投げを得意とする技能力士だったが、大関に上がってからは正攻法の相撲に変わっていった。なかなか自分の型が完成出来ずよく負けてハラハラしたが、立会い一気に正攻法で攻める型の完成を極めて、名人横綱栃錦の相撲を完成させた。こうした努力の栃錦を尊敬した。

体力には恵まれない栃錦と同じように軽量の若乃花が後から横綱に昇進し栃若時代を築き大相撲を盛り上げた。

栃錦は引退して春日野親方となり、協会の理事長として現在の両国国技館を完成させた。土俵のキビシイ表情とは違い、温厚で人望のある親方となられた。

余談だが新国技館の館内の下水道は墨田区役所の雨水活用のエキスパートのアイデアを採用している。合理的な方でもあったと聞いている。また理事長職を盟友であった若乃花の二子山親方に引き継いだ。

総武線小岩駅の名人横綱栃錦の銅像は当時がしのばれ懐かしい。

初めてのちゃんこ鍋

小学生のころから夏は大学選抜相撲選手権を楽しみにしていた。1956年、中学一年生で観戦した選手権が最後になった。その年の秋に上京したからだ。

当時は中大、東京農大、拓大、北海道大が強かったが私は関西学院大学を応援した。この年の選手権では関西学院大学の中村さんという選手にかわいがられた。中村さんは栃錦の若いころと同じように小兵だったが前さばきが上手く、団体戦の先鋒をつとめていた。団体戦は5名(先鋒、次鋒、中堅、副将、大将で構成される)、3名勝った方が勝ち。

関学は優勝できなかったが試合後、中村さんと関学の宿舎の宿屋に行き、選手の皆さんと一緒に初めてちゃんこ鍋をごちそうになった。美味しかった。応援してくれたお礼だと言われて照れ臭かった。

後年、何度もちゃんこを食べているが七尾で食べた初めてのちゃんこ鍋の味に勝る美味しさはない。

この秋に東京に移ったが、上京してからも中村さんから手紙を貰って、蔵前の国技館に応援に行ったことがある。支度部屋で再会し、お土産に粟おこしをいただいた。しばらく文通が続いた。やさしい方だった。

柏鵬時代

東京に出てきてからは相撲の観戦はラジオからTVに変わった。技を競い合った栃若時代も終わって、より大型力士の時代となり、柏鵬時代の幕開けとなっていった。柏戸と大鵬は大相撲人気を二分した。

大鵬さんは「柏戸さんあっての自分だった」とよくおっしゃっていた。直線的で剛の柏戸に対して大鵬はやわらかく柔軟な取り口だった。大関ぐらいから二人の力に差が出始めたといわれているが私は一本気な柏戸が好きだった。

柏戸が休場明けの場所で千秋楽に大鵬に勝ち、優勝した。八百長だと水を差した人もいたが私は素直に柏戸の優勝を喜んだ。柏戸と大鵬の相撲に八百長が入る余地はないと思う。残念ながら一度も二人の対戦を生で観ていないが名呼び出し「小鉄」の声で土俵に上がる両横綱の雄姿が瞼に浮かぶ。

鳴門部屋と稀勢の里

私は後年、住み慣れた向島から松戸市二ツ木に移った。近くの八ヶ崎の丘の上に鳴門部屋があり、八ヶ崎に住む友人がよく朝げいこに誘ってくれたが行かずじまいだった。

馬橋駅のそばに「あらかわ」というおでん屋があった。狭い店内はいつも混んでいた。壁に鳴門親方(おしん横綱の隆の里)が「あらかわ」でおでんを食べている写真が飾られていた。地元の人に愛されていたことがよくわかった。親方は体調管理のため酒は一切飲まなかったそうだ。

散歩の途中、一度八ヶ崎の鳴門部屋を覗いたことがある。まだ、若い稀勢の里がけいこの後、日光浴をしていた。もう萩原から稀勢の里になっていたと思う。

鳴門親方が亡くなられて、鳴門部屋は閉鎖され、一門の力士は田子の浦部屋に移った。江戸川区の小岩である。稀勢の里が皆の待ち望んだ横綱になり、親方の隆の里さんは喜んでいるだろう。小岩駅前にある栃錦の銅像に負けない威厳をもった名横綱になってほしいものだ。


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