隅田川に学ぶ
浅草から向島を巡る隅田川沿いの散歩で学ぶことが多い。
旧象潟町や旧猿若町があった浅草馬道地区、桜橋、言問橋、
象潟町
江戸時代に秋田県本荘藩主六郷公が奥浅草に下屋敷を構えた時地元の景勝地「象潟九十九島」にちなみ奥浅草のこの地を「象潟町」と名付けた。このことにより平成5年秋田県象潟町と浅草馬道地区とが「姉妹地」となった。
俳聖松尾芭蕉が奥の細道を旅した際、九十島の美しい景色を見て「象潟や 雨に西施が ねぶの花」という素晴らしい句を詠んでいる。姉妹地として秋田健象潟町と浅草馬道地区の末永い交流により相互の発展に寄与し、文化の復興と継承を図ることが誓われたことを記念してこの芭蕉の句の石碑が建てられた。
浅草猿若町
浅草6丁目はかつて丹波国園部藩主小出氏の下屋敷であったが1841年幕府は天保改革の一環として公収し、その跡地に現中央区にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は跡地に移転し、跡地は江戸芝居の始祖と言われた猿若勘三郎の名を取って猿若町となったと言われた。移ってきた芝居小屋の内、中村座、市村座、河原崎座が「猿若三座」と呼ばれた。
2012年に亡くなった18代目中村勘三郎が2000年1月、中村座で芝居小屋を復活させた。
平成中村座は山谷堀のリバーサイドスポーツセンター隣の公園広場に記念の碑がある。勘三郎の遺志は若手歌舞伎役者たちにより浅草公会堂(オレンジ通り)での定期歌舞伎公演でしっかり継承されている。
3月10日の大空襲
言問橋の浅草側の橋詰めに20万人以上が犠牲になった東京下町の大空襲の慰霊碑がある。いつも多くの献花が絶えない。碑には「ああ 東京大空襲 朋よ やすらかに」とある。昨年TVのドキュメンタリー番組で知ったことだがアメリカは東京近郊の軍需施設をピンポイントで爆撃することがむつかしく焼夷弾による無差別爆撃を行った。
いかに悲惨な空襲の被害だったかは子供の頃よく聞かされた。火災を逃げて隅田川に向かった犠牲者は多かった。隅田川は火を免れたいと飛び込んだ人々の死体が累々と浮かび、言問橋の上は焼死体の油で滑って歩けなかったそうだ。戦争がもたらす悲劇は想像をこえるおぞましい地獄絵である。私達の世代までは戦争の恐ろしさを知っている。戦争の悲惨さを知らない世代が政治の中枢で憲法改正を進めていることを危惧する。戦争は絶対にやってはいけない。
水原秋桜子
桜橋に向かう途中にいくつかの碑がある。
水原秋桜子の「羽子板や 子はまぼろしの すみだ川」という句が刻まれた碑がある。
空襲の慰霊碑のそばにあるこの句をどう理解すればいいのか?
秋桜子は昭和天皇の従医を務めた医師で俳人として有名だ。
隅田川にちなむこの俳句は羽子板から謡曲「隅田川」の梅若を連想したと解釈されている。かどわかされた梅若を探して京から隅田川のほとりまでやって来た母親が川べりにある塚が梅若の墓と知って嘆き悲しむこの謡曲のストーリーと3月10日の大空襲で多くの母子が犠牲になったことを重ねるのは考えすぎだろうか?
この句の解釈は諸説あるようだが、私は秋桜子が梅若のストーリーを借りて東京大空襲で命を落とした人々への鎮魂歌を詠んだと思う。
因みに言問橋の川上にある白髭橋上流の東白髭公園の一角にある本
正岡子規
さらに桜橋の方向へ歩を進めると、正岡子規の「雪の日の 隅田は青し 都鳥」の歌碑がある。
子規は向島周辺の景色を好んだ。
「向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉」
隅田川と墨堤が気に入って大学予備門の学生の時、長命寺桜もち山本やの二階に3か月ほど滞在して「花の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ」と詠んでいる。
子規は明治28年新聞記者として日清戦争に従軍したが墨堤の桜を偲んだ「から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん」という和歌を詠でいる。
雅号の子規はホトトギスのこと。鳴いて血を吐くホトトギスといわれるが、子規は喀血した我が身をホトトギスに例えた。
「花」
「春のうら~らのすうみいだがわ~」
春が来ると誰もが思わず口ずさみたくなるのがこの歌だろう。渡し舟で渡るのどかな往時の隅田川の川面がキラキラと目に浮かぶ。
「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の名曲だ。リバーサイドスポーツセンターに近いところに羽衣自筆の歌碑がある。
歌碑に寄せられた解説によると「花」は東京音楽学校教授武島羽衣28才、同助教授滝廉太郎21才の時の作品だ。
滝廉太郎は「荒城の月」、「鳩ぽっぽ」でも知られるが「花」の作曲の3年後24才で結核で亡くなった。敬虔なクリスチャンだったという。
一方の武島羽衣は日本女子大学で長く教鞭を振るい1961年退職、1967年に94才で長寿を全うした。
カリエスで亡くなった子規、結核で若くして没した廉太郎。天に召された二人がもう少し健康で長生きしたら何を残してくれただろう。天才の夭逝が惜しまれる。
学ぶことが多い隅田川沿いの散歩だ。
我が母校(都立墨田川高校)の校歌の一節を思いだす。
「隅田の川はわが師なり」