隅田川のボートレース、早慶レガッタ

早慶レガッタ2018
2018年4月22日 第87回早慶レガッタ

散歩コース

浅草に住む私は桜橋を渡り川向うの向島の墨堤を散策し、言問橋の下を抜け、アサヒビール本社を左に見て吾妻橋を渡り浅草に戻り、新仲見世通りから観音様を抜けて帰るコースが散歩コースの定番だ。散歩しながら色々学ぶことが多い。

待乳山聖天桜橋に出る前の待乳山聖天そばに今戸橋があり、今は暗渠になっているが江戸時代は山谷堀が日本堤まで流れていて、今戸から船で吉原に繰り込んだそうだ。今戸橋には竹屋の渡し(リバーサイドスポーツセンター脇の公園に石碑がある)があり、川向うの向島の墨堤(土手といった)の三囲神社のそばに常夜灯があり、夜を照らし、竹屋の渡しを利用して春の花見客、夏の花火客や明治になってからは、向島の花柳界に来た客でにぎわった。

常夜燈渡し舟は橋のない江戸時代の大川を渡る大切な交通手段だった。隅田川は岩淵の水門から荒川と分かれ、足立区、荒川区から墨田区・台東区を抜け江東・中央区から東京湾に流れる。今、千住大橋から両国橋までの間に白髭橋、桜橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋と現在の隅田川の両岸を結ぶ橋がある。

江戸時代は大川橋(今の吾妻橋の前身、もちろん木製)ができるまで千住大橋と両国橋の間に橋がなく渡し舟が使われていた。竹屋の渡しや佃の渡しがよく知られているが貴重な交通手段だった。

隅田川のボートレース

隅田川は明治時代に入ると10年頃(1877年頃)より東大、体操伝習所(筑波大学の前身)、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)、慶応義塾などの学生がボートを漕ぎ始め16年(1883年)に体操伝習所と東京大学日本初の対抗戦を行った。以来、隅田川のボートレースは盛大に行われた。明治天皇も16年(1883年)から4度レガッタを天覧された。(玉座後が碑として残っている)

墨田区向島(むこうじま)には東大と一橋大学の艇庫があり子供の頃は各大学の艇庫のある墨堤に練習を良く見に行ったものだ。

早慶レガッタは春のビッグ・イベントだった。レースは新大橋から白髭橋手前の大倉別邸前(現在は桜橋まで)。大倉財閥の大倉別邸は宮殿のような大御殿で1950年代までその威容を残していた。隅田川の水質悪化と船舶往来増加もあって、1964年の東京オリンピックのため埼玉県の戸田にボート競技の施設が移り、1967年に向島から艇庫がなくなった。その後、生活排水や工場排水の管理浄化が進み、隅田川の水質は改善され、1971年に早慶レガッタは隅田川に戻ってきた。

早慶レガッタには、今も語り継がれるエピソードがある。1957年のレガッタは大雨の荒天で慶応は「8人でローイング!行けるところまで行こう」という作戦だった。一方早稲田は「6人で漕ぎ、2人とコックスの3人で艇内の水をかき出す」ことにした。ともかく両校はゴールを目指した。しかし、慶応は篠突く雨の中、艇が沈没、ゴールできなかった。早稲田はゴールした。

早稲田は「天候が悪く、本当の実力勝負ができていない」と再試合を慶応に要請した。慶応は「荒天は両校同条件で結果判定に従う」と主張し、再レースは行われなかった。早稲田は慶応と好天の下での再試合を望み慶応は同条件下の荒天でも優劣の判定に従うとして早稲田の勝利を称えた。

この話はスポーツマンシップのお手本として小学校6年生の国語の教科書に「あらしのボートレース」としてとりあげられた。

今年の早慶レガッタは4月22日に開催された。春本番の好天の下で素晴らしいレース展開、一艇身差で早稲田が優勝した。

2018年4月22日 早慶レガッタの結果

1着 早稲田 12:30.43
2着 慶 應 12:35.19

ところで「嵐のボートレース」を争った早慶両校の選手はWKマスターズとして健在。先日、TV番組で今日も旧交をあたためている両校のマスターズが肩を組んで歌う姿があった。両校のエール交換と早慶レガッタの伝統は今年も後輩に引き継がれるだろう。

※日本の早稲田大対慶應大の対校戦は、英国のオックスフォード大対ケンブリッジ大、米国のハーバード大対イェール大と共に「世界3大レガッタ」と言われている。


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