まぼろしの能登の酒「鹿渡」

七尾市木町「鹿渡酒造店」

「角七」の酒

小学生時代は七尾で過ごした。

住んでいた木町(きまち)の家の前に通称「角七」(かくしち)という蔵元があった。杉玉が吊るされていて、広い入り口を入ると右側に帳場があり、左側は洗瓶場などがあったと記憶している。突き当り右奥に広い庭があり、よく大きな樽が干してあった。

一つ年上の息子さん(坊やと呼んでいた)とよく遊んだが酒の匂いのする「角七」で遊ぶのが好きだった。

酒が仕込まれるといい匂いが近所にたちこめはじめる。絞り終わると薄い板の様にのした酒粕を近所に配られ、その晩はどこの家も粕汁。私は小さく切った酒粕をそのまま食べるのが好きだった。

能登の酒は「おんな酒」という人もいるようだが少し甘口でさらっとした飲み心地がいい。祭りともなると、若い衆が一升瓶を回し飲み、威勢をつける。子供心にカッコよく、ああして飲んでみたいと思ったものだ。「角七」の酒は確か鹿渡(しかわたり)と呼んだと記憶している。

寒絞りの「鹿渡」

ところで、七尾には当時、昔ながらの人力車が1台、自転車が引く輪タクが1台あった。

輪タクのおじさんが夕方になると「角七」の隣の食料品店で買った身欠きニシンの煮ものを肴に「角七」の帳場のカウンターでコップになみなみと注がれた焼酎を飲んでいた。(酒瓶のマークからあれは寶焼酎だったと思う。)とても美味そうで、大きくなったら「角七」でああやって飲みたいと思ったものだ。

後年「角七」を訪問し、跡を継いで当主となった「坊や」と再会したが酒粕の匂いのプンプンする酒が飲みたいと言ったら、寒仕込みの時期がいいと言われた。冬にこのわたやタラの子付けで寒絞りだと夢膨らませた。

約束を果たさないままでいたが、七尾の作り酒屋は「山王」というブランドを統一して出すことになったそうだ。また先頃、七尾在住の幼馴染から「角七」が閉店したと聞いた。「坊や」の消息は聞いていない。

「角七」の帳場のカウンターで寒絞りの「鹿渡」を飲むことはついになかった。

初めてのビール

能登は保守的な風習が色濃く残っていた。正月には長男は跡取りだからと上座に座らせて猪口で日本酒を一杯注がれた。2、3歳の頃なので祝い酒を飲んだかは定かでない。

父は外では飲むが、家で飲んだのを見たことがなかった。

小学校5年生の時、父の仕事仲間のお宅に母から用事を言いつけられて立ち寄った。たまたま、父と仕事仲間のおじさんがビールを飲んでいた。おじさんがコップにギンギンに冷えたキリンビールを注ぎ僕も飲みなさいと勧められた。どうしたものかと父を見たが何も言わない。扇風機が回っていたから夏だったと思う。水滴のいっぱいついたビールがおいしそうで、サイダーを飲むように戴いた。苦かったが美味しいと思った。

お礼を言って帰ってきたが顔がほてり、おなかがふくれてボーと歩いてきた。不思議な気持だった。母に叱られた。その後ビールを飲んだのは、大学生になってからだ。

ブランドの選好

JWTシカゴが1980年代に行った調査で、67%の息子が父親が飲んでいるビールと同じブランドを選ぶとの報告があった。(髭剃りのブランド調査にも同様な父親の影響があったと記憶している。)

私のビールのブランド選考はもっと複雑だ。父はウイスキー党でビールはほとんど飲まなかった。私とビールの思い出は「ながーい話」となる。

初めて飲んだビールはキリンビールだったが、その後現在までの60年あまりの私のビールのJWTでいうバイイングシステムを次は考えてみたい。

しかわたり【鹿渡】

石川の日本酒。酒名は、昔、鹿が沖合の能登島に泳いで渡ったことに由来。蔵元の「鹿渡酒造店」は嘉永元年(1848)創業。現在は廃業。蔵は七尾市木町にあった。[出典|講談社]


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