マッドメン
1967年に東京のオフィスマネージャーだったジョンストンさんがヨーロッパを統括する任務につかれ、その後任としてJWTメルボルンからアルコックさんが赴任された。アルコックさんはクリエイティブのキャリアが長く、東京のクリエイティブの強化と新規ビジネスの獲得を最優先された。
来日早々ペプシコーラとのコンタクトを開始。当時のペプシのトップと同じコンドミニアムに住み、プライベートの生活でも本人はもとより奥様同士、お子様同士お付き合いをして関係強化を図っておられた。(アメリカ広告界のドラマ「マッドメン」の世界だ)
当時、米国ではコカ・コーラとペプシコーラの2大ブランドが清涼飲料界をリードしていた。アメリカではペプシコーラは家庭内消費市場に強く、コカ・コーラの強力な競合ブランドだった。
アメリカをはじめコカ・コーラもペプシコーラも進出したマーケットでフランチャイズ制というビジネス戦略をとった。どちらもコーラの原液を傘下のフランチャイズ契約をしていたボトラーに売り、ボトラーは原液を砂糖、炭酸水などと加工し、瓶(後には缶が主体になる)詰めした商品をルートカーで小売店に販売。ボトラーは全国で17社。フランチャイズ制だから販売地域は競合することはない。
当時は料飲店を中心とする屋外市場(On Premise Market)、と家庭内市場(Take Home Market)に分かれていた。家庭内市場では酒屋、パン、菓子店が最も大切な小売店だった。
コカ・コーラのビジネス戦略はこうした小売店に強い企業をボトラーとした。例えば酒類卸の小網商店が東京のボトラー、千葉はキッコーマンが。神奈川が三菱商事/明治屋といった具合で、確実に流通網を抑え、販路を確保していった。
一方ペプシコーラは砂糖メーカー、商社、セメント会社、放送局などボトラー選定は必ずしも屋外市場、家庭内市場の販路に強い企業と結びついていなかった。
また当時、後年ナショナルアカウントとして重要な取引先になるスパーマーケットは立ち上がったばかりだった。
コーラのブランド広告
広告はブランド価値を創りだす。コーラ市場はコカ・コーラとペプシコーラの2ブランドが独占していた。立上り時期からコカ・コーラが「スカッとさわやかコカ・コーラ」をスローガンとして加山雄三、ワイルドワンズなど当時の若者が望ましいと感じるパーソナリティーを通し、広告した。
コカ・コーラはのどの渇きをいやすというソフトドリンクのカテゴリーの機能的価値を独占した。非機能的価値の面でもコカ・コーラの広告にはどこかあか抜けた若者の世界と赤を基調にしたカラーアイコンが必ずあった。健康的で明るい誰もが好ましいと思う若者とそのライフスタイルを投影していった。
“The Real Life” から “Yes Coke Yes” と “Coke is it!”、そして “I feel Coke” へと、継続性のあるコカ・コーラのブランド広告は10年以上続いた。若者が飲むさわやかでトレンディなソフトドリンクというコカ・コーラのブランドの個性は強固なものになっていった。
「のどの渇きをいやす」という機能的価値を確保したコカ・コーラに対抗するにはペプシは非機能的価値を作り出す必要があった。
ペプシチャレンジのブラインドテストのような機能面での訴求が効果が薄いことは前に述べた。ペプシはコカ・コーラにはない挑戦的でアンビシャスな若者を投影することができていたらと今でも思う。
厳しい今の時代を生き抜く知恵のある、賢い若者の選ぶブランドとしてペプシコーラをアピールできていたらと思う。コーラという機能価値は変わらない。非機能的価値で顕著な差を生むべきだった。(アメリカではそうしていた!)
コカ・コーラのブランドの個性がぼやけてきていると感じるのは私だけだろうか?ペプシの挑戦は今からでも遅くない!
ミリンダ
さて、JWTはアルコックさんの努力もあって1968年にミリンダというフレーバードリンクのアカウントを獲得した。ペプシコーラは電通、ミリンダはJWTと担当エージェンシーが分かれた。コカ・コーラの担当エージェンシー、マッキャンエリクソンはコカ・コーラの仕事で全国の仕事のネットワークを強化していった。
当時、外資系のエージェンシーは東京ベースだった。JWTも例外ではなかった。ミリンダを担当した私は全国のフランチャイズボトラーを訪問し、ペプシのボトラーである地方の主要企業のマネージメントとビジネスの絆ができた。また、ペプシのお陰で全国の媒体社との関係を強化することもできた。こうしたネットワーク強化で力をつけていった。
ボトラー各社のマネージメントは東京のペプシコーラの意向を私達から直接聞きたがった。東京のクライアントとボトラーのパイプ役の役割を果たす役割が大切だった。媒体コンタクトの経験が深く、ビジネスの理解が高かったフィールドスーパバイザーを専従させた。東京へのフィードバックはまたクライアントとの関係を強化した。こうしてクライアントの信頼を勝ち取っていった。
広告の作品の質が高かったことが信頼獲得の原点であることはいうまでもない。
ミリンダはフレーバードリンクでは後発ブランド。グレープ、オレンジ、レモンライムの3フレーバーがあったがグレープを主力フレーバーとして押し立てた。ボトラーの要望で競合フレーバーのないレモンライムの広告も作った。
「カラカラのどにミリンダグレープ!」「緑のそよ風レモンライム!」いい広告だったがペプシコーラの広告予算が優先される結果ミリンダは十分なサポートが得られなかった。
クリエイティブディレクターの雨宮敏夫さん、コピーライターの平塚直樹さん、鈴木久恵さんたちと頑張った。
その後導入されたミリンダストロベリーの発売時期は梅雨時だった。広告の撮影は梅雨の影響の少ない北海道、札幌郊外の静内で540名の大学生のエキストラを使ってボトルのフリップチャートで空になっていくミリンダストロベリーのボトルを空撮した。天候に恵まれず大変苦労した。(今ならさしずめCGで仕上げられる。)今と違ってマニュアルでアイデアを作り制作した時代は、今のクリエイティブの制作プロセスにはない苦労とアイデア誕生の喜びがあったと思う。
同じようにミリンダメロンのアイデアは、メロンのボトルを敷き詰め下からライトを当てたステージで、ゴールデンハーフがコラソン・デ・メロン(メロンの心)を歌って踊った。エンディングは「飲まなきゃ、コラソン!」ナベプロが力を入れた素晴らしい力作だった。
潤沢ではなかった媒体予算のためクリエイティブの成果を全国的に展開できなかったことが残念だった。
ペプシトーナメント
ペプシコーラの仕事でJWTは新しい分野の仕事を経験した。
プロゴルフのペプシトーナメントの事務局の運営の仕事を任された。パブリックリレーションズ ディレクターだった二宮寿三さんからの指名だった。当時ペプシトーナメントは主要プロゴルフトーナメントのひとつだった。事務局の運営チームを編成し、二宮ディレクターの下でチームは頑張った。おかげで大した問題も起こさずペプシトーナメントの仕事を続けていった。
スポーツマーケティングの治験を通し、クライアントの信頼を得て二宮ディレクターから大きな仕事を戴くことになる。