アカウントプランニングの生みの親
スティーブン・キングさんのリーダーシップでアカウントプランニング機能ができたのはJWTロンドンで1968年のことである。
スティーブン・キングさんのリーダーシップでアカウントプランニング機能ができたのはJWTロンドンで1968年のことである。
ユニリーバのサンシルクはヘアタイプ別のシャンプーとリンスという当時としては画期的な機能を持つブランドであったが5%のマーケットシェアを超えることはなかった。
競合のトップブランドに拮抗する、マーケットシェア15%を超えるヘアケアブランドを開発することがユニリーバのトッププライオリティのプロジェクトとなった。
これからの話は1980年初めの話だとお断りしておく。英国人はペットを大切にする。私は犬派なので愛犬のサムとわたしの話を交え英国のお犬様の話をしたい。
1980年に東京から連れて行った和犬の雑種のサムは2年の短い間だったが英国の生活を満喫した(と思う)。
アカウントプランニングを学ぶためJWTロンドンに赴任することになった。1980年のことである。出発前は引継ぎで忙しかったがお世話になったクライアント、業界関係へのこれまでのお礼と英国赴任の挨拶に回った。
(社)日本マーケティング協会からはJMAニューズ、Marketing Horizonへの寄稿を依頼された。ロンドンに赴任してから現地のトピックスを送る約束をした。
JWT入社後研修も終わり、アカウントマネジメント部(当時はアカウントリプレゼンタティブ部)に配属になった。
当初は海外(主にアメリカ)から依頼された広告(コレポンアカウントと言われた手紙でやり取りする仕事)や長瀬産業コダック製品部のノンアマチュア製品の仕事を担当した。
手紙・テレックスのやり取りで扱う仕事はマクダネル・ダグラス、チャンピオン・スパークプラグ、USタバコアソシエーツといった扱い額は小さな仕事だった。また、長瀬産業の仕事はコダックの印刷用製品、X-Ray製品、フォトファブリケーション製品といった特殊な分野の業界広告だった。
七尾にいた小学生時代はたまに見る映画のほか、ラジオが毎日の娯楽の中心だった。楽しみな番組はたくさんあったが「二十の扉」、「三つの歌」、「とんち教室」、「笛吹童子」、「三太物語」花菱アチャコ、浪花千栄子の「お父さんはお人好し」、三木トリローの「日曜娯楽版」などが記憶に残る。(最も、大人は「君の名は」だ)
ラジオはTVと違いビジュアルがないから、小説と同じように聞き手の想像力を掻き立てる。
小学生時代は七尾で過ごした。
住んでいた木町(きまち)の家の前に通称「角七」(かくしち)という蔵元があった。杉玉が吊るされていて、広い入り口を入ると右側に帳場があり、左側は洗瓶場などがあったと記憶している。突き当り右奥に広い庭があり、よく大きな樽が干してあった。
一つ年上の息子さん(坊やと呼んでいた)とよく遊んだが酒の匂いのする「角七」で遊ぶのが好きだった。
酒が仕込まれるといい匂いが近所にたちこめはじめる。絞り終わると薄い板の様にのした酒粕を近所に配られ、その晩はどこの家も粕汁。私は小さく切った酒粕をそのまま食べるのが好きだった。
石川県七尾市はアマチュアの野球が盛んだった。父が「尾湾倶楽部(びわん くらぶ)」という七尾市内の野球好きの有志で作っていたクラブチームに深く係っていた関係で小さい時から野球をして遊んだ。
「尾湾倶楽部」と磐城セメント七尾工場のチームとは好敵手同士で町の野球好きが二派に分かれて応援した。もちろん私は尾湾倶楽部の応援をした。
七尾の御祓(みそぎ)小学校から御祓中学に進み野球部に入部した。当時御祓中学は石川県下一、二を争う野球が強い学校だった。上級生の練習は厳しく、下級生は玉拾い!といった感じでいきなり大人の世界に放り込まれたような気持ちになった。朝早く、バットの素振りをし、壁にボールを投げ、1人で朝練をし、いつかレギュラーになり、県大会に出るつもりでいた。
IWS(国際羊毛事務局)のウールマークの広告はJWTが制作した広告のショウケースの代表作品であった。TVのみならず、新聞、雑誌でキャンペーンは話題を集めた。素晴らしいコピーとアートディレクションは今でも新鮮な広告としてよみがえる。
ピュアバージンウールの品質を保証するマークとして商品についているウールマークは商品に付加価値を与えたものだ。ウールマークの着いたスーツを初めて着た時の誇らしげな気持ちは忘れられない。