JWTのマルチナショナル化
私が1966年にJWTに入社した当時、JWTは世界最大の広告代理店だった。JWTはアメリカではニューヨーク、シカゴ、デトロイトを中心に、フォード、パンアメリカン航空、コダック、ケロッグ、クラフトフーズ、ジレット等々アメリカの主要マーケターをクライアントに持っていた。
こうしたアメリカを代表するクライアントが続々海外市場を開拓するのと並行し、JWTは世界各国のJWTのオフィスを通して取り扱い高を拡大し、マルチナショナル・ブランドの広告を支援していった。
戦前から戦後にかけて確立したグローバルネットワーク、標準化したブランド戦略とクリエイティブプランニングそして卓越したマネージメントのリーダシップがJWTのマルチナショナル化を加速させていった。
栄光のブランド
入社早々の私にとって特にコダックは、アメリカでの市場を独占し、追従を許さない製品とすぐれた広告が憧れの的で、特別の思い出がある。
調査部門、媒体部門でのトレーニングの後、アカウント・マネージメント部門に配属された。コダックの担当チームに配属された私は、コダックのカレンダーの表紙を飾っていたコダックタワーを見ては、アメリカの栄光のブランド、コダックに思いを馳せた。
独占ブランド
コダック・エクタクロームはプロフェッショナルの分野では圧倒的な支持を得ていた。
コダクロームはリバーサル・フィルムで高い評価を得ていた。
アマチュア用の主力ブランド、ネガ・フィルムのコダカラーXはコダックが日本のアマチュア写真市場での売り上げ拡大の主力ブランドとして最も力を入れていた製品だった。
当時、アメリカではコダックが市場を独占していたが故に、イーストマン・コダックの役員会でマーケット・シェア(市場占有率)という言葉が語られることはなかったという。
カテゴリー広告
広告もこうした状況を反映して写真需要の拡大を目指すものだった。当時アメリカで大当たりした、「イエスタデイ」というタイトルのコマーシャルがその典型だった。
コマーシャルは老夫婦がロフトで昔の品を整理しているところから始まり、二人で思い出のレコードを蓄音機にかけてしばし若き日に思いをはせる。そこに表でクランクションが鳴り息子夫婦と孫が訪ねてきたことを知る。二階のロフトから父親がアメフットのボールを息子に投げるといった内容で Remember The Day というエンディングタイトルでコマーシャルは終わる。
コダックはアメリカンライフの一部だ。競合の意識は皆無。アメリカでは市場を独占していたコダックに競合を意識することはなく広告で自社製品の差別化を訴求することもなくひたすら写真市場の拡大のみを考えていた。後述するが写真市場に起きつつあった新しい力とそれに伴う、写真に対する消費者の態度と行動の変化に対応する理解と展望を持ち合わせていなかった。独占している銀塩写真市場にどっぷり漬かり満足していた。
JWTニューヨークのマネージメントの指導力、そして時代の先を読む戦略プランニングの貢献があればよかったと思うが1960年代にJWTロンドンで発展してきたアカウントプランニングがアメリカに導入されたのは1980年代になってからだ。
さらなる市場拡大
コダックはまたさらなる銀塩写真市場拡大を図り、マガジンフィルムを入れるだけのコダックインスタマチックカメラを導入した。カメラの機構の特許は公開したがマガジンフィルムの特許は保持、あくまでフィルムが売れればいいという方針だった。
日本ではこのカメラとカートリッジフィルムはバカチョンカメラと言われ、その軽便性とフィルムの質の高い画質が評価された。フジフィルムはこのインスタマチックカメラとカートリッジフィルムを導入しなかった。後年「写ルンです」でその先を行く使い捨てカメラを導入することになる。
カラー写真のパイオニア
コダックはカラー写真のパイオニアとしての立場を保持しようとした。
1967年、日本で初めてのフルカラーの全ページ新聞広告を掲載した。少女がブドウの房を取るコダカラーXの広告だった。掲載日の早朝、最寄りの毎日新聞の販売店に刷り上がりの出来を確認しに行ったことを思い出す。
コダックから学んだこと
私はコダックから多くのことを学んだ。プロフェッショナル用写真用品、グラフィック・アーツ(写真製版関連の製品)、フォトファブリケーション(集積回路の回路の写真撮影と処理)、コダックXオマットシステム(Xレイフイルム自動現像処理システム)等、時代の先端を行く製品から学んだことは、その後の私の仕事の糧になった。
プロラボの講習会では8×10のフィルムの撮影から現像まで学んだが、仕上がりはひどいものだった。(いかに写真の技術が大変で奥深いかだけは理解した。クライアントに大変感謝している。)
「コダックする!」
イーストマン・コダックのポリシーで、イーストマンやコダックは、例えばイーストマン・カラーやコダカラーX、コダクロームのように形容詞として使い、単独で名詞として使うことを禁止した。
固有のブランドであったエスカレーターやエレベーターが普通名詞化した例をとりあげて、ブランドが普通名詞化する危険を説いた。写真を撮ることをアメリカでは「コダックする!」と言われ始めていた・・・・危険信号だった!
マーケットシェア
1980年代にはいると力をつけてきたフジフィルムがアメリカの西海岸に進出し、10%のマーケットシェアをとるまでになった。
イーストマン・コダックは初めてJWTにアメリカ、日本、ヨーロッパの市場の状況の説明を求めた。
コダックとフジはアメリカでは90:10、日本では10:90、ヨーロッパでは50:50という状況だった。
ロチェスター本社
日本から参加した私は、担当アカウントディレクターのアーニー・エメリング氏とラガーディア空港からニューヨーク州ロチェスターのイーストマン・コダック本社に向かった。
真冬の寒い日だったがロチェスター空港から本社に向かい、遠くにコダックタワーが見えてくると「ついに来た!」と思った。しかし、私の高揚した気持ちとは裏腹にロチェスター本社の社内は古く、暗く、新しいことに取り組むエネルギーはあまり感じられなかった。
クライアントからは私達のプレゼンテーションに対する反応もあまりなく、活発な議論もなかった。私はコダックが世界でどう市場変化に対応していくかという姿勢を感じなかった。アメリカ以外はあまり取り上げないといった姿勢だった。アメリカでのフジフィルムのアマチュア写真市場への進出が頭にあったのだ。
後年、イーストマン・コダックはチャプター11(会社更生法)を適用されることになった。
銀塩写真の終焉
トップ・マネージメントが陣頭に立ち、持てる技術を駆使していち早く銀塩写真市場にから異業種の開拓に乗り出し、ビジネスの多角化に取り組んで成功しているフジフィルムとは対照的だ。
デジタルカメラ、スマホ、フェースブック、インスタグラム等々、新しい力が写真市場に参入し、インターネットの時代になると消費者の写真を撮る手段と行動は変わった。
そしてコダックが君臨した銀塩写真の時代は終わった。