新たなビジネス機会を求めて
1982年初めにJWTロンドンから東京オフィスに戻り、アカウントプランニングを立ち上げ戦略プランニング機能をビジネス拡大のダイナモとして活用し多大の成果を挙げた。若く有能なアカウントプランナーグループとJWT独自のプランニング手法、独創的なシングルソースのデータベースの開発と優秀なセグメンテーション分析、アカウントプランナーのニーズに対応する社内定性リサーチ機能と消費者およびトレードインサイトの発見など新しい戦略プランニングの仕事は刺激的でやりがいがあった。1987年までにその機能はJWT東京のダイナモとして成果を上げていた。同時に私は自分のキャリア開発の次のステージに来ていることを自覚していた。マネージメントを新しい仕事の分野でやってみたいという希望があった。
ミネアポリスとカールソン・カンパニーズ
1991年の秋にカールソンカンパニーズからコンタクトがあった。
カールソンカンパニーズの日本法人はカールソンマーケティンググループ(株)でトレーディングスタンプの専業会社から多様化するポイントプログラムの仕組みを駆使するマーケティング会社に移行する方向だったがマネージメントの仕事に参加しないかという話だった。
カールソン・カンパニーズは米国ミネソタ州ミネアポリスに本社がある非上場の企業で3兆円の売り上げをあげる大企業だった。創業者はカーティス・カールソンさんで当時もトップマネージメントとして陣頭指揮されていた。
子供の頃「ミネソタの卵売り」という暁てる子の歌で聞いたことがあるがミネソタのことは全く知識がなかった。ミネソタ州はアメリカ中西部の北に位置しミネアポリスが最大の都市。北欧とドイツからの移民が多く、白人の比率が高い。カールソン・カンパニーズをはじめ、カーギル、ジェネラル・ミルズ、メトトロニック、ターゲットなどの本拠地となっている。大西洋を単独飛行で横断したリンドバークの出身地でもある。ミネソタの州都はミシシッピ川を挟んでミネアポリスの対岸にあるセントポールだ。
ミネアポリスはセントポールと一緒にツインシティーと呼ばれる。だからプロ野球チームはミネソタツインズである。
JWT時代はニューヨーク、シカゴ、ロスアンゼルス、サンフランシスコ等の大都市しか知らない私にとってミネアポリスは地方都市で、カールソンカンパニーズが巨大な売り上げをあげていることが本社でのオリエンテーションを受けるまで正直言って信じられなかった。
ミネアポリスの郊外のミネトンカにある本社を訪問し、役員フロアにあるビジターオフィスから見える景色は見渡す限りの大平原で、地平線を眺めて地球が丸いことが実感できた。山がないから冬は北極からの寒波が直撃する!
「10,000湖の国」と言われるくらい湖水に恵まれ春から秋はアウトドアライフが満喫できる。冬も凍結する湖水の氷上でスケートやホッケーを楽しむ。おおよそニューヨークや東京のようなせかせかした忙しさを感じさせない大らかな気風があった。
本社で東京に持ち帰るビジネスの機会を得るために多くの方から業務内容の説明を受けたがマーケティング部門、トラベル部門、ホスピタリティー部門の仕事が一体となって動いていた。トレーディングスタンプのビジネスはすでに過去のものでマーケティング部門ではポイントプログラムも企業のビジネスインセンティブプログラムなどの方向に進化していた。
カールソンさんとゴールドボンド
カールソンさんはスエーデンからの移民の二世。1914年6月9日生まれ、1937年にミネソタ大学を卒業し、P&Gに入社し、ミネアポリス在住のセールスマンとして仕事をはじめたが後の夫人となるアーリンさんがミネアポリス在住であることもあり、ミネアポリスで仕事をすることを決めていた。
ある日ミネアポリスのデパートでアーリン夫人と買い物をして初めてスタンプを得た。スタンプはデパートのみに使われていて専用ブックに貼り、ブックがいっぱいになると現金と交換するものだった。当時は大恐慌の最中、中小の小売業はデパートと同じ商品を売っていたがデパートのスタンプに対抗する手段を持っていなかった。
カールソンさんは月―金はP&Gの仕事をしながら、週末は独自のビジネスの立ち上げを計画した。
デパートに対抗し、グローサリーストアを対象にしたスタンプを立ち上げることを決心した。1パッド(1シート100スタンプを50枚)販売単位として南ミネアポリスのオドランドというグローサリーストアと交渉した。1パッド$14.50でゴールドボンドスタンプを扱えば店舗の周辺のオドランドの商圏内の景品交換の独占権利を与えるということでスタンプのビジネスをスタートさせた。
1938年3月のことだ。当初、銀行から融資を受けることに苦労したが6月には1年6ヶ月仕事をしたP&Gを円満退社した。カールソンさんはP&Gから多くを学んだという。
因みにミネトンカにある(ダウンタウンと空港の中間)1989年にオープンしたカールソンセンター(本社機能)はP&Gの本社をモデルにしているという。
こうしてスタートさせたゴールドボンドのスタンプビジネスは拡大していった。
ゴールドボンドのビジネスは順調に伸びていったがまだミネアポリスのローカルスタンプだった。その後、二次大戦中に売り上げは一時減少したが戦後、1952年に大規模スーパーマーケットチェーンのスーパーバリューがゴールドボンドを採用したのを契機に飛躍的にビジネスが拡大していった。
スタンプビジネスの終焉と異業種への進出
トレーディングスタンプのビジネスはアメリカではメーカーズクーポンに代わられ一挙に衰退した。しかしその前にカールソンさんは1960年代に入ると異業種のM&Aを手掛けた。1962年にミネアポリスのラディソンホテルを買収し、ホスピタリティービジネスを拡充し、後年フォーシーズンズからリージェントのブランド権を獲得し高級ホテル経営に進出。1970年代に入るとレストラン事業を強化。また旅行代理店業務に進出してカールソン・トラベル・ネットワークを設立。1994年にはフランスのワゴン・リーとカールソン・ワゴン・リー・トラベル(CWT)でビジネス旅行代行中心の最大手となった。
日本はカールソンさんにとって特別なマーケットだった。1968年に三菱と合弁でゴールドボンド日本を設立し、日本でのスタンプビジネスを開始した。菱食、廣屋はじめ食品の有力卸流通業を通じ全国の食品小売業にゴールドスター、ギフトボンドというスタンプを販売した。日本は高度成長期。貯めたスタンプで好みの商品に交換できる仕組みは消費者から大歓迎された。交換業務も旭川と岡山に交換センターを置き、順調に発展していった。
しかしアメリカと異なり日本ではメーカーズクーポンは発展せず、スタンプは打撃を受けなかったがスタンプのエンドユーザーである中小の食品スーパーマーケットチェーンはバブル崩壊後業績不振に陥るところが多く、スタンプの使用に予算(売り上げの2%)を回せなくなりスタンプの販売は減少し、1991年には三菱とのパートナーシップを解消し、カールソン・マーケティング・グループ・ジャパンとしてスタンプビジネスを継続させていた。
日本のスタンプビジネスが下降し、陰りが出ていた1992年春に私はカールソン・マーケティング・ジャパンに代表取締役として参加した。
日本の他のスタンプ事業はまだ継続しているようだが私達は日本のスタンプビジネスが衰退する事を予測した。そして新しいビジネス戦略を立てなければ生き残れなかった。
スタンプビジネスからの撤退はまずカールソンさんに撤退を承認してもらわなければならなかった。カールソンさんの承認を得ることは大変だった。日本ではまだまだ行けると思っていた彼を説得し、承認を得るためにはしっかりした論拠が必要だった。
1993年までにスタンプの交換量が売上量を上回るようになっていた。生スタンプの販売金額から交換に引き当てられる準備金が目減りして赤字になっていくわけだ。そこで統計の専門家を雇い、交換に戻って来ているスタンプの標本調査を実施して過去のスタンプ販売量から将来の交換量を予測し、カールソンさんの承認を得るため当時の交換準備金が何年耐えられるか推定してもらった。その結果、8年で交換に充当する準備金が底を尽き、会社が破綻するという結論がでた。ミネアポリスでの私たちの説明を聞いたカールソンさんは撤退に同意してくれた。彼にとっては我が子のようなスタンプビジネスを打ち切ったカールソンさんの悲しみは計り知れない。
カールソンさんとの思い出
カールソンさんは希代稀な起業家だ。
彼はポイントプログラムのコンセプトをベースに異業種に進出していったがホテルマネージメントのホスピタリティービジネスと旅行ビジネスの専門のマネージメント人材を登用して、カールソンカンパニーの発展を加速させ当時、5兆円を目指す企業を生み出した。
私は本社に近い、湖畔にあるカールソン邸に呼ばれ、今後のビジネスの話を伺ったり、本社の「Retreat」という役員食堂で食事をしながらポイントプログラムの原則と成功のカギについて教えていただいた。
思いつくことがあると夜中に電話でたたき起こされることもたびたびあった。(ミネアポリスと東京の間には14時間の時差がある!)本社での新規ビジネスのプレゼンに立ち会えと帰国途中、急遽サンフランシスコからミネアポリスによびもどされたこともあった。彼の飽くなき起業精神は一時も揺らぐことはなくその情熱は熱く、不滅だった。
私が1998年にカールソン・マーケティング・グループを退任後に、日本の大手企業がミネアポリスのカールソン本社を訪問したいという話がありカールソンさんから私に同行してほしいと依頼があった。先方の担当者とカールソン本社に伺ったがミネアポリスでは何らかの具体的なビジネスにつながる話に進むことはなかった。その企業は磁気カードを使ったポイントプログラムの仕組みを開発していたようだ。カールソンさんは入院中の病院から私に電話してきてこう聞かれた。「ベツ、三菱と(日本でスタンプ事業を合弁したパートナー)と比べてこの会社とどちらが大きいか?」カールソンさんと話したのはそれが最後だった。カールソンさんが健在で直接訪問者と面談されていたら話はもっと違っていたかもしれない。
カールソンさんは1999年2月19日に亡くなられた。享年85才だった。
新しいポイントプログラムの仕組みをカールソンさんは最後まで模索されていた。その後、日本ではポイントプログラムの普及はめざましいものがあるが、ハード面での話にとどまらずポイントカードのビジネスミックス(ポイントの販売と交換業務)をどう納得できる仕組みにするか?また新たなビジネス機会に応用できるか?天国のカールソンさんから電話がかかってきそうだ!(天国と東京の間に時差がないことを!クロスフィンガーズ!)