焼き菓子の定番ブランド
鎌倉の鳩サブレーは鎌倉を代表する焼き菓子の定番ブランドとなっている。明治27年(1894年)に和菓子屋として創業した豊島屋が創業から3年後の明治30年(1897年)来店した外国人から貰った焼き菓子を食べたのがきっかけで作り始めたといわれている。以来、小麦粉、バター、砂糖、卵などの材料と配合比は変わっていない。
鎌倉の鳩サブレーは鎌倉を代表する焼き菓子の定番ブランドとなっている。明治27年(1894年)に和菓子屋として創業した豊島屋が創業から3年後の明治30年(1897年)来店した外国人から貰った焼き菓子を食べたのがきっかけで作り始めたといわれている。以来、小麦粉、バター、砂糖、卵などの材料と配合比は変わっていない。
能登の中心、七尾に住んでいた子供の頃、私は七尾港の海でハゼ、メバル、チヌなどやタコを獲ったりしたが川魚を獲ったことはない。田んぼの畔にはどじょうや鮒がたくさんいたが獲るものも食べるものも海の魚が中心の生活だった。
浅草は昼から飲む所には事欠かない。割烹や小料理屋といった敷居が高いところでなく、大衆的で、親しみやすく、安くておいしく安心して飲めるところが多い。
1717年に八代将軍吉宗の命で隅田川の向島の土手沿いに庶民の楽しめる桜の名所を作ることになって以来、向島の桜は300年以上受け継がれてきた。文人、墨人はもとより庶民が愛した墨堤の桜。染井吉野がその中心。70年がその寿命と言われている。
浅草の好きな所・食べ物の話は尽きない。
観音通り、新仲見世通りから、仲見世を抜け、伝法院通りに折れるあたりは若者が行列する甘味屋、メンチカツ店、メロンパン屋、アイスクリーム屋、たい焼き屋などが軒を連ねている。休日は若者や外国人旅行者が大勢おしかける。
浅草から向島を巡る隅田川沿いの散歩で学ぶことが多い。
旧象潟町や旧猿若町があった浅草馬道地区、桜橋、言問橋、
隅田川の台東区浅草側と墨田区向島(むこうじま)の両岸は桜の名所。春は桜で始まる。
特に向島の墨堤(向島の土手と土地の人は言った)は向島の花柳界から芸者衆がでてお茶の接待所が設けられて、向島1丁目から5丁目までの売店が並び大賑わいの花見になる。
観音様と浅草神社(三社様)の間を通り抜けると言問通りに出る。この通りを渡ると地元の人が観音裏とか奥浅草と呼ぶ地域になる。言問通りに面している雷ゴロゴロ会館脇の柳通りを中心に浅草の花柳界があり、粋な風情の料亭、待合はじめ、レストラン、寿司屋、小料理屋、キッチン、蕎麦屋、和菓子屋などがある。夕方になるとお座敷に向かう芸者衆を見かける。柳通にある見番を中心に、奥浅草というのにふさわしい粋な街並みだ。
雷門通りを田原町に向かって歩くと、国際通りに出る手前にすしや通りがある。すしや通りが新仲見世通りと交差するところから六区ブロードウエイと呼ぶが、ここから突き当りのひさご通り入り口までが六区興行街だった。1955年頃にはこの六区興行街に国際劇場を加えると実に23軒もの映画館、劇場、演芸場があった。興行のメッカだった当時から、現在六区に残っているのは浅草演芸ホールと東洋館、ロック座、奥山通りにある木馬館だ。
石川県七尾市の愛宕山相撲場を見下ろす高台に七尾市公会堂があった。公会堂正面の前に衆議員議員だった大森玉木氏の銅像が立っていた。私が子供の頃は衆院議員だった大森玉木氏と益谷秀次氏が能登を代表する政治家だった。益谷秀次氏は衆議院議長を務めた。
大森玉木氏は興行に力を入れていて、東京・浅草で「玉木座」という芝居小屋を持っていたそうだ。