浅草六区(ロック)
雷門通りを田原町に向かって歩くと、国際通りに出る手前にすしや通りがある。すしや通りが新仲見世通りと交差するところから六区ブロードウエイと呼ぶが、ここから突き当りのひさご通り入り口までが六区興行街だった。1955年頃にはこの六区興行街に国際劇場を加えると実に23軒もの映画館、劇場、演芸場があった。興行のメッカだった当時から、現在六区に残っているのは浅草演芸ホールと東洋館、ロック座、奥山通りにある木馬館だ。
6つのストリップ劇場
六区には6つの常設のストリップ劇場があったそうだ。ロック座とフランス座は、子供の私でも名前を聞いて知っていた(子供だけで六区へ行ってはいけない、と言われたほどだった。)
1時間半のストリップショーとその合間に、「コント」という軽演劇の1時間のショウタイムがあった。フランス座からは多くの芸人が輩出した。1950年代のフランス座は黄金期。結核療養から帰った渥美清、長門勇、谷幹一、関敬六が活躍し、他の舞台に出ていた佐山俊二、三波伸介などが飛び入りで舞台に上がったそうだ。後で述べる深見仙三郎も六区のスターだった。ストリップの踊り子目当てに通ったという永井荷風と違って小沢昭一、加藤武がコントを観に来る常連の客だったという。この時期に井上ひさしがフランス座の文芸部員をしていたそうだ。
黄金期はまたTV時代の到来でもあった。多くの芸人が浅草から日比谷に活躍の場を移して日劇ミュージックホール、日劇に出演し、TVへの出演へとつながっていった。
六区の興行街は衰退していったが井上ひさしがいた16年後の1972年に明治大学工学部を中退して新宿で遊んでいた、北野武がティーシャツにショートパンツ、ビーチサンダルといういで立ちで浅草にきて、芸人になろうとした。エレベーター係としてフランス座に飛び込み、進行係を経て、「コント」の舞台に出ることになる。
六区通り街路灯
演芸ホールと東洋館の前の浅草六区通りは石畳で、街路灯が通りの両脇に等間隔にある。街路灯の柱の両面には浅草が輩出した芸能人の顔写真と、その下にその芸能人の略歴が書かれたプレートが架かっている。浅草六区通りを仕切っている「捕鯨船」の河野さんが予約している「ビートたけし」の分を入れると31枠が架っている。
この31人の中に一人だけ私が知らない謎のレジェンドがいた。深見千三郎だ。彼はロック興行街黄金時代、ロック座からフランス座に移り、裏方と「コント」を仕切った草分け的喜劇人で地元では「師匠」と呼ばれていた。ビートたけしがフランス座に入ったのも、深見千三郎に弟子入りするためだったという。みんな中央に出ていっても浅草で頑張った深見千三郎は、ビートたけしも住んだ千束町の第二松倉荘で1983年2月に59才で亡くなった。(フランス座で役者生活を終えたわけだから私は千三郎を知る由もない)
街路灯の説明文には次のように記されている。
深見千三郎 ふかみ・せんざぶろう
大正12年生まれ。昭和58年没。本名、久保七十二(なそじ)。昭和15年、オペラ館の青年部入座。昭和18年、益田喜頓一座、昭和20年、「深見千三郎一座」の旗揚げ。昭和23年、前澤稲子一座入座。昭和27年、横須賀劇場&青柳竜太郎一座に在籍。昭和33年から44年までロック座の座長を務め、関敬六、谷幹一、渥美清、長門勇氏らと一緒に仕事をした。東八郎は内弟子。昭和45年にフランス座に移り、裏方を取り仕切り、幕あいのコントに出演。昭和50年、弟子のビートたけしを育てる。昭和56年、10年間にわたる東洋興行との「歩興行」契約を降り、その後は化粧品会社に務める。昭和58年、煙草の火の不始末で焼死。ビートたけしは師匠の死をフジテレビの控え室で聞いた。一瞬、絶句し、部屋の隅に行き、無言のまま師匠に習ったタップを踏み始めたという。浅草軽演劇の草分け的存在。「浅草芸人」。
(浅草六区通り街路灯説明文より)
ビートたけしと師匠、深見千三郎のフランス座、松倉荘や夜の浅草での生活は文字通り「コント」を地でいくようで、ビートたけしの「浅草キッド」(新潮文庫)にくわしい。また、2017年9月20日にBSプレミアムから放映された「たけし誕生~オイラの師匠と浅草」では師弟の関係が詳しく語られた。
深見千三郎に学び、芸を磨いたビートたけしは弟子入り2年後にストリップの合間のコントという軽演劇から、笑いを求めてくる浅草演芸場の客を相手にすべく、千三郎から離れ、ビートきよしと組み漫才に進んだ。千三郎は漫才を芸として認めなかったという。また、生涯、浅草を離れることもなかった。老いていく師匠の千三郎と彼の元を離れスターダムを駆け上がっていく若い、ビートたけしの話は胸を打つ。
後年きよしとのツービートのコンビをそのままにして、ビートたけしは単独でTVのバラエティー番組に喜劇俳優として進出していった。TV番組の中のコントはフランス座時代の師匠、千三郎から学んだ芸が元ネタになっているものもあるという。例えば「タケチャンマン」のコントの「鬼瓦権三」もそうだという。
刺激と反応
ところで、JWTに「刺激と反応」という考えがある。広告は目標とする反応を得るための刺激だということだ。フランス座のコントの座付き作家と芸人にあてはめて考えるとわかりやすい。
フランス座に来る客はストリップを見に来る。入場料はストリップに払っているわけだ。コントをみて楽しみたいなどとは思ってもいないのだ。こうした客からコントで笑いを取る(期待される反応)ことがいかに難しいことか想像に難くない。面白くなければたちまち「引っ込め」とヤジが飛ぶのだ。
こうした観客を相手に笑いを取るためコントの脚本を書いたフランス座の文芸部員の中に井上ひさしがいた。後年、小説家、劇作家、放送作家として大成した。ビートたけしと同時代にフランス座で座付き作家を目指した、作家の井上雅義もこうした環境で鍛えられていったそうだ。そうした文芸部員の書いた苦心のコントの台本を基に「笑い」を取るため必死で演技したフランス座の芸人の中から優れた喜劇人が輩出したのだ。
ビートたけしもフランス座の舞台で鍛えられ、スターダムを駆け上がっていった1人だ。笑わせる(期待される反応)ためのコントの台本と、それを演技する芸人の演技(刺激)はまさにクリエイティブの領域だ。
北野武は今やコメディアンにとどまらず、俳優として映画監督としても国際的に認められるセレブリティーとなった。
浅草の人はこの街で芸を磨きスターダムを駆け上がっていったビートたけしの成功を喜び、誇りに思っている。今また、北野武は本を書くと意欲をみせている。北野武の挑戦は進行形だ!
浅草六区通りに予約済の31番目の枠に彼の写真と略歴が載るのはまだまだ先になる。