向島の桜
1717年に八代将軍吉宗の命で隅田川の向島の土手沿いに庶民の楽しめる桜の名所を作ることになって以来、向島の桜は300年以上受け継がれてきた。文人、墨人はもとより庶民が愛した墨堤の桜。染井吉野がその中心。70年がその寿命と言われている。
1717年に八代将軍吉宗の命で隅田川の向島の土手沿いに庶民の楽しめる桜の名所を作ることになって以来、向島の桜は300年以上受け継がれてきた。文人、墨人はもとより庶民が愛した墨堤の桜。染井吉野がその中心。70年がその寿命と言われている。
浅草の好きな所・食べ物の話は尽きない。
観音通り、新仲見世通りから、仲見世を抜け、伝法院通りに折れるあたりは若者が行列する甘味屋、メンチカツ店、メロンパン屋、アイスクリーム屋、たい焼き屋などが軒を連ねている。休日は若者や外国人旅行者が大勢おしかける。
浅草から向島を巡る隅田川沿いの散歩で学ぶことが多い。
旧象潟町や旧猿若町があった浅草馬道地区、桜橋、言問橋、
隅田川の台東区浅草側と墨田区向島(むこうじま)の両岸は桜の名所。春は桜で始まる。
特に向島の墨堤(向島の土手と土地の人は言った)は向島の花柳界から芸者衆がでてお茶の接待所が設けられて、向島1丁目から5丁目までの売店が並び大賑わいの花見になる。
浅草に住む私は桜橋を渡り川向うの向島の墨堤を散策し、言問橋の下を抜け、アサヒビール本社を左に見て吾妻橋を渡り浅草に戻り、新仲見世通りから観音様を抜けて帰るコースが散歩コースの定番だ。散歩しながら色々学ぶことが多い。
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観音様と浅草神社(三社様)の間を通り抜けると言問通りに出る。この通りを渡ると地元の人が観音裏とか奥浅草と呼ぶ地域になる。言問通りに面している雷ゴロゴロ会館脇の柳通りを中心に浅草の花柳界があり、粋な風情の料亭、待合はじめ、レストラン、寿司屋、小料理屋、キッチン、蕎麦屋、和菓子屋などがある。夕方になるとお座敷に向かう芸者衆を見かける。柳通にある見番を中心に、奥浅草というのにふさわしい粋な街並みだ。
雷門通りを田原町に向かって歩くと、国際通りに出る手前にすしや通りがある。すしや通りが新仲見世通りと交差するところから六区ブロードウエイと呼ぶが、ここから突き当りのひさご通り入り口までが六区興行街だった。1955年頃にはこの六区興行街に国際劇場を加えると実に23軒もの映画館、劇場、演芸場があった。興行のメッカだった当時から、現在六区に残っているのは浅草演芸ホールと東洋館、ロック座、奥山通りにある木馬館だ。
王貞治さんは墨田区押上駅に近い、実家である、お父様の経営していた「五十番」という中華料理店で少年時代を過ごした。現在はスカイツリーのおひざ元だ。
中学は墨田区の本所中学で学んだ。当時、王さんは厩橋四丁目(現本所四丁目)に住む高校生を中心とした野球チーム、厩四ケープハーツに中学3年生で参加し、投手だったという。
1970年代初めまでにロンドンでアカウントプランニング機能が確立された。当時英国では小売業の力が強くなり、メーカーはその対応に苦慮していた。JWTロンドンでは小売業の値引き、プライベートブランドへの対応として過去100年のメーカーと卸業、小売業と消費者の関係の変化を紐解き、ブランドの価値を維持強化することの大切さと、そのためのブランドの継続した広告の価値を訴えた。それがプレゼンテーションビデオ “What is a Brand?” である。
1967年に東京のオフィスマネージャーだったジョンストンさんがヨーロッパを統括する任務につかれ、その後任としてJWTメルボルンからアルコックさんが赴任された。アルコックさんはクリエイティブのキャリアが長く、東京のクリエイティブの強化と新規ビジネスの獲得を最優先された。
来日早々ペプシコーラとのコンタクトを開始。当時のペプシのトップと同じコンドミニアムに住み、プライベートの生活でも本人はもとより奥様同士、お子様同士お付き合いをして関係強化を図っておられた。(アメリカ広告界のドラマ「マッドメン」の世界だ)